三重県亀山市のオーガニック・カフェ月の庭にて、吟醸酒をいただく。
この三重の淋しい地方都市にあるカフェに全国各地から著名なミュージシャンや画家、詩人などが集う。今夜は、「素」のライブが庭で催されるそうで、夕方、彼らのリハーサルを少し覗かせてもらった。ここの空気に溶け込むゆるいグループ感がいい。
それにしても、すばらしいカフェだ。
奈良県山添村に波多という集落があり、ここに除疫神の牛頭天王を祀る神波多神社が鎮守する。
波多族。彼らは海洋民族として航海技術に卓越した民族であったといわれる。
そして、この村には多くのイワクラ群があり、夏の夜空の天体図の三つの星(デネブ、ベガ、アルタイル)と位置関係が一致している。 これらは、この村の神野山を中心として夏至の太陽の昇るところと沈むところ、冬至の太陽が昇るところと沈むところを線で結ぶとその線上に巨石や神社が点々と配置されている。一説によると、太陽の輝きがもっとも薄れたとき、太陽の復活(生命の復活)を願い、お祈りしたのではないかと推測されている。
カラダに溜まった不要な贅肉、毒素。これらは水や食べ物、空気の汚染から体に蓄積され、加齢、ストレス、アルコールや不規則な生活による免疫力の低下やホルモンのバランスの乱れによるものだ。
こんな毒素を溜め込んだカラダでは、充実した人生を送ることも、よい仕事もできない。
だから、決心した。解毒することに....。カラダに溜まった毒素を排出して、細胞を活性化するのだ!
森に響き渡る清流の轟、限りなく透明な水、濃厚な空気、木々の緑、ごつごつとした岩、鳥のさえずり、そしてあたり一面に飛び散るマイナスイオン。
ここは、四万十川支流の上流域。
これまでの僕の四万十川のイメージとは異なる未知の世界。
確かに、吉野にも美しい川は多い。だが、吉野の凛とした透明感とは違う亜熱帯特有の甘くて優しい空気を感じた。
また、四万十川は、“川”だけに着目した観光ツーリングだけでは勿体ない。山の緑をめでよう。里山の田んぼの風景、ゆったりとした生活のリズムを感じてみよう。この地に身をおけば、本来の自分のペースを取り戻せるかもしれない。
今回の旅で得た四万十川に対するイメージは、“ハワイのジャングル”のような世界。
そう、ここに流れるのは、まったりとした濃厚な時間_
サウンドスケープで喩えるならば、今回の旅で車のBGMに流し続けていたSprout。ゆるめのオーガニック・グルーブな曲がぴったし溶けあう。
だれか、こんなディープな四万十の新しい旅のスタイルをもっと僕らにコーディネイトしてくれませんか。
次回はテント持参。
荒れ果てた地に横たわる
水晶に封印された縄文人の記憶のかけらを
幽世と現世のシャーマンである御杖たちが祓い清める
アネモスよ、君は海原を鳥のごとく悠々と飛翔し、その魂は波多の民に還る
風は波を生み、波は竜神と化す
そして、夜空の星座と太陽神アマテラスが出会う周期を大地に刻印する
荒涼の地に眠る去勢された鉱物を嘆き悲しむ君よ
君はひとつの伝説でもある
わが社の狭い世界でさえ人間関係につくづく疲れることがある。上司、部下、クライアント・・・・。僕らは会社で生産するという労働に匹敵するぐらいコミュニケーションに費やす労力やエネルギーを消耗している。人と人とのコミュニケーションの大切さはわかるが、時には物静かに自分の世界に没頭して仕事をする時間だって貴重だ。確かに、今の僕の会社での立場からは贅沢な望みなのかも知れないけれども。
僕の会社は技術者集団であるので、自分の技術には責任とプライドをもつ人間が必然的に集まっている。特に、僕は妥協を許さず、かつ熱くなるタイプであるので、仕事上での衝突が避けられず対人関係も決して上手くいっているとは言いがたい。それでも最近は、管理職として部下の成長を暖かく見守っていくことの大切さに目覚めてもいる。でも、昨日は上司と締め切り前の僕が書いたコンペ資料で熱いバトルを繰り返してしまった。自分の技術や意見を主張するつもりが、いつのまにやらお互いがエゴ剥き出しのパワートークへと転換し、つくづく嫌になってしまうし後味も悪い。
アーサーティブネスというコミュニケーション理論を習ったことがある。Assertivenessとは、「自己主張すること」。でも、自分の意見を押し通すのではない。それは、自分の気持ちや意見を、相手の権利を侵害することなく、率直に、誠実に、対等に表現することである。この理論は70年代のアメリカの女性解放運動から始まったもので欧米社会では広く浸透しているらしい。
アサーティブネスでは自分には12の権利があると説く。同様に相手にもあるこの権利を侵害しないということが基本であると言う。
個人的には、8番目の権利が好きだが、英語ならば“I have No Idea.”でさらりと表現できるけれども、日本語であればその言葉の奥にある姿勢を問われるようで、喧嘩に発展しかねないという疑問が残ることも確かである。
いずれにせよ、この講義を受けて、自分のコミュニケーション・パターンの欠点に気づき、アサーティブなものへと変えていくために日々トレーニングしていこうと誓ったばかりであるのに、昨日の上司との一件からして長年の習慣や態度を変えることの難しさを実感した。
そして、良好なコミュニケーションの入口は、『人を誉めて、人の目をしっかり見ること』。これって、日本人には結構難しいことなんだ。
日本の平凡な道だけれども、なんとなく好きな風景。
山口県周南市の国道2号線。この道は、中国地方を横断し関西圏と九州地方とを結び、また、山陽地方の主要都市間を連絡する西日本の大動脈。
この日、僕は山陽新幹線の徳山駅で降り、レンタカーを借りて見知らぬ街を徘徊した。その目的は、道路整備効果をリサーチするためにドライバーや住民の視点 へと限りなくブレークダウンしたフィールドワークのためだ。地味な仕事ではあるが、好きな分野。道路整備は確かに環境や自然保全にとっては脅威的なもので あることは否めないが、人の生活や営みを支えるための必要不可欠なライフラインだ。人とモノの流れを血液と喩えると血管の役割をなす。特にこの写真の道路 は、欧米並みにクルマが快適に走行できるし、自転車や歩行者にも安全で歩いて気持ち良さそうな広い歩道だってある。
このような日本版Free-Wayにクルマを走らせて知らない街に出かけてみるのも楽しい旅のスタイルだろう。バックパッカーのように必要最低限の荷物をトランクに詰め込んで彷徨するのだ。そのような自由で気ままな自分探しの旅に憧れる。
山口は瀬戸内海沿岸には少し昭和の時代にタイムスリップしたような懐古で特異な街が多くあるし、山陰には魅力的な日本の原風景が広がっている。長門では天 才童謡詩人‘金子みすず’の世界に魂が洗われるだろう。そして、「ふぐ」であまりに有名な下関は、本州の最果ての地。この街は、本州、九州、韓国・中国と の三角形を結ぶ陸と海のクロスロードとして独特の雰囲気を醸し、どこかアジアの匂いが漂うオリエンタルチックで開放感のある港町だ。
なにげない「道」から新たな旅や出会いが始まり、そして、その道には終着点はない。“On the Road”かってのアメリカのビートニクス詩人や放浪者が好んだ言葉だ。
On the Road_そして、僕のこのblogも肩の力を抜いて、日々感じる事柄をありのままに綴っていこうと改めて思う。
Be Here Now!!
6月20日、炎天下の京都・鞍馬寺にて千年もの歴史をもつ古儀、「竹伐り会式」が厳かに行われた。写真は、鞍馬寺僧兵の(弁慶のような)姿をした勇ましい大惣法師が、「蛇」に見立てた竹を勢いよく伐りつける瞬間をとらえたもの。
竹伐り会式は、水への感謝を捧げ、災禍を断ち切り吉事の招来を祈る儀式であるとともに、「魔王尊」、「毘沙門天王」、「千手観音菩薩」、つまり宇宙の大霊である三身一体尊天の慈愛と光明と活力を、世のすべての心の内に甦らせるための祭儀である。
鞍馬寺総長の信楽香仁氏は、「竹」を通して自然から多くの無言の教えを学ぶことができると説く。草でもない、木でもない、神秘的な竹と向いあうことで、宇宙の大生命の世界を想い、物質世界の奥深くに隠された素晴らしい力について悟るべきであるとも言う。
(信楽香仁)
そして、この日は、前日の甥の結婚式のために来阪した母親とともに、この神秘的で宇宙の大生命の尊さを説く象徴的なこの儀式に参列できたことに感謝している。
で、その番組の途中に「カメヤマローソク」のコマーシャルが流れた。なぜ、このゴールデンタイムに盆でもないのに、日本に流通しているローソクの大部分の シェアを占 める三重県亀山市の企業のCMが?という疑問は、たまたま、その情報を知っていたから驚かなかった。そう、今日は夏至。1年で夜が最も短い日。そして、今 夜、全国各地、あるは環境問題に関心のある個人の家で100万人のキャンドルナイトと いうイベントというか取組みが行われているはずである。電気を消してキャンドルの明かりで静かに夜を過ごし、地球のこと、環境のことを考えるという、 LOHSA的な静かな取組みなのである。カメヤマローソクは、このことを思い出してもらうべく、ひばりさんの特別番組の途中でさり気なく自社CMを流し訴 求したのであろう。いいぞ、カメヤマローソク。そして今夜、僕の家も蛍光色の照明を落とした。このblogを綴っている最中も最小限の間接照明だけ だ。はたして、日本人の何割の人がこの静かな取組みのことやLOHASという言葉を知っているのだろうか?
梅雨。恵みの雨が大地に降り注ぐ季節。都会で住んでいると単に“うっとしい”嫌な季節の到来である。これまでは、こんな時期には冷房の効いた映画館や ショッピングに出掛けるのがベストだと本気で思っていた。先日、雨の天河神社の鎮守の森で改めて気づいたことがある。それは、雨が森や田んぼに降り注ぎ、 植物が活き活きとしている様子から雨を通して感じ得た自然界の生命メカニズムの尊大さである。
一日降り注ぐ大量の雨を地表が存分に吸収し たあとで、梅雨の合間の晴れた日には、これら地表から水蒸気をふくんだ空気が上昇し雲となり、まわりの水蒸気を取り組んで大きく成長し、やがて上昇気流で は支えきれなくなると再び雨となり落下する、という小学生レベルでも知っている雨のメカニズム。つまり、「水」はこのガイアにおいて自然界にも生命にも万 遍なく巡回する全ての命の根源だ。雨の降り続く鎮守の森にレインコートを着込んで雨に打たれながらそのような物思いに耽っていると、植物が雨に喜び活き活 きと呼吸していることをリアルに感じた。
鎮守の森にある巨木の幹に耳を当てると、地底の水分を根 が吸い取って樹の隅々までその水を送り込む音を聴くことが出来る。また、大地に降り注ぐ雨の音は、本当に清らかで綺麗な音色である。田んぼのカエル君たちの合唱も雨音にあわせて一段とエキサイトしてくるようだ。
僕 ら人間は、このような生命の根源となる水を再び清らかに蘇えらさねばならない。それも水晶のようなピュアな水に。このまま自然環境を無視し効率を求めるあま り水を疎かにしていると必ず人間にその報いが還ってくるだろう。シンプルで陳腐なメッセージかも知れないけど、水の神である弁財天が鎮座される鎮守の森で つくずくそのように実感した。
雨の日こそ、家から大自然のなかに飛び出してみようと思う。そして、カメラを持って雨が降り注ぎ 活き活きとした自然や雨上がりで水蒸気が空に昇天していく様を様々な角度から撮影してみようと思う。カエルの合唱もバリ島のケチャのようだ。このような些 細な発想の転換とモンベルのレインコートとLLBeanのレインブーツがあれば梅雨も待ち遠しい季節となる。
写真は、月の明かりに怪しく光る天川村の天ノ川。
初夏の心地よい夜には散歩がいい。月光を浴びてお気に入りの曲をi-podで聴きながら散歩する。選ぶ曲は、月といえばオオカミ。で、子供の頃FENでよ く聴いたWolfman Jackが選曲しそうな曲たちだ。例えば、ストーンズとか聴きながら吠えるのがよい...。最近、 月齢を 必ずチェックする。今月の満月は何日とか?常に気にかけている。例えばこんな想像もする。満月の夜には世界各地から集まったトラベラー達が世界のどこかの 気持ちのよい秘密の場所に集結し、この月が照らすほのかな明かりのもとでレイヴで踊り明しているはずだ。そんな思いに耽って満月を眺めていると、まるで自 分がその秘密の場所に今すぐ飛んでいけそうな気もする。一方、福知山線の脱線事故もほぼ満月の日だったように記憶している。
前にも書いた ように大宇陀の禅寺で深夜まで続いたライブを観た後、最寄の近鉄榛原駅まで1時間もかかる農村の寂れた夜道をテクテクと歩いた夜も偶然満月だった。歩道の 街路灯もなく、月光を頼り歩いていると、普段は使っていない何か原始的で動物的な感覚がよみがえり、実に神秘的であった。
月にこだわり始 めたのは、京都の鞍馬山を訪れて知った魔王尊サナト・クマラ伝説やウエクサ祭からだ。ウエサク祭(五月満月祭)とは、釈迦の降誕、悟りを開いた日、入滅の 日が、全てヴァイシ ャーカ月(インド歴第二月)の満月の夜であったという伝承により、アジア各地で行われる祭り。太陽暦では四月から五月の満月にあたる。 鞍馬にはこの魔王尊サナト・クマラが祀られている。鞍馬山の頂上付近にはサナト・クマラが金星から地球に降り立ったとされる場所もある。地球の地底深くに あると伝えられているジャンバラヤを支配しているのがサナト・クマラであり、彼の世界への入口が地球上には唯一ヒマラヤと南米と京都の鞍馬にあるとのこ と。このような伝説を語り始めると、きりがないからやめよう。ただ、僕にとっては、鞍馬という地は、天理、天河、熊野という聖地が地図上では一直線上で繋 がっている地理的な位置関係に興味がある。
月の光とジャンバラヤというキーワードで思い出すのが、最近、CDで再発された30年も前のハーリーこと細野さんのエキゾ・シリーズ最終章、そう、知る 人ぞ知る名盤「はらいそ」のB面に並んだ曲たち。“ジャンバラ通信”、“ウォーリ・ビーズ”など深い意味をもつタイトルの曲が並んでいる。このレコードも 中学か高校のとき物凄く影響を受けた1枚だった。 このアルバムが僕に与えた衝撃は計り知れない。エキゾチックミュージックの創始者のマーティン・デニー やアーサー・ライマンの存在を知ったし、ニューオリンズのGumboマスターことDr.Johnのセカンド・リズムを踏襲した“フジヤマ・ママ”というカ バー曲は、戦後、ハワイの日系人コミュニティの流行歌であったり、そして、沖縄民謡さえも細野ワールドで消化したすばらしいアルバム。日本をあらゆる角度 から外から傍観し、西洋東洋とも混血化し、かつ、ハリウッド映画に出てくる“まがい物的”な音のマンダラ世界を展開するハリー細野は音の錬金術師のごと きである。曲の面白さもさることながら、歌詞が最高に冴えている。例えば“ウォーリ・ビーズ”はこんな感じ..
♪逝こう帰ろうよ、月の砂漠へ
♪胸に植えろよ月の種を
♪百と八つの悩みの種、ひとつふたつ数えるたびに
♪ほら、体が軽くて どこでも行ける 思えば 今すぐ
♪Om Mani Chandraya/Santi Chandra(オーム、摩尼宝珠なる月よ、静寂なれ、月よ)
♪ほら、皆、解きほぐされ どこでも行ける 思えば 今すぐ
潮が静かに満ち高まってくるような、レゲエ調のコズミックなリズムに浸された魂が舞い上がり、あくがれ出て、煩悩のしこりが解きほぐされて浄化の プロセスを辿っていく。そして魂はあらたによみがえる。ハリー細野は、このような「楽園(はらいそ)」に向かう音楽をつくりつづけている。う~ん、さす が師匠、当時からぶっ飛んでる。それにしても、たしかに現代人、特に都会の人は月明かりを全く気にしなくなった。
思い起こせば、京都の天空まつりでの天空オーケストラのスピリチャルでラブ&ピースなステージや、あのウブドゥ村(バリ島であまりにも有名な農村、芸術村)のような美しすぎる水田風景と多くの芸術家を吸引するような強烈な磁場をもつ奈良県大宇陀町にある禅寺でのサヨコ・オト・ナラのシークレットライブが、かっての僕がラスタ・ファン!であった記憶を齢40にして再び喚起したのかもしれない。それほど最近レゲエ・ミュー ジックに再びドップリはまりつつある自分を感じる。80年代にロンドンに旋風を巻き起こしたDUB・ムーブメントのなかでもLinton kwesi jonsonのbass culturesで当時の僕は都会のラスタマン気取りだった。それにしても、これほどレゲエに夢中になるのは、大学生のとき以来かもしれない。
レゲエ・ミュージック界を代表するグル/ボブ・マーリィの4枚組みコンプリート・ボックスの『ソング・オブ・フリーダム』は、 1960年代ロック・ステ ディ時代から、亡くなる直前までの主要なトラックすべてが聴ける嬉しいボックス。入門編としてもコレクターズ・アイテムとしても充実している。特に、個人 的には昨年亡くなったレゲエ界の大ボスCoxson DoddのSTUDIO ONEに残した初期のロック・ステディナンバーが好きだ。これから2年ぐらいはかかるかもしれないがSir,Doddの偉業を追ってレゲエがどこからやって来て、どのようにして完成されたのかを探ってみたい。
それにしても、ボブはいい。バックのウェイラーズのすばらしさ!ザ・バンドの如き音の空間、音圧にしびれる。そこにアイ・スリーズのバックコーラスが絡むと、もうだめ(笑)、ナチュラル・ハイ状態。
昔、インド放浪で世界各地のヒッピー君達とフレンドになったが、言葉は通じなくても、ボブとトーキングヘッズは僕らの共通のフェイバリットだった。
そういえば、高松には80年代に登場してボブの後継者、貴公子とまで騒がれたブラック・ウフルの ボーカリスト、マイケル・ローズの弟さんのカールトン・ローズ氏と日本人の奥さん が経営する僕の大好きなレゲエ・バーがある。夏が来る前に彼らに会いに高松に行きたくなった。ブラザー・ローズがDJブースに立って選曲してくれるキングストンから届いたダンスホール・スタイルのリアル・レゲエをBGMに奥さんのジャマイカ料理とラム&マンゴーが最高なんだ。
六甲アイランドへのカフェ出店に向け着々と準備を進めている。
店のコンセプトを練っているうちに、この街でカフェをすることの面白さを改めて発見した。この街は、首都圏以外では類稀な特異性がある。 それは、P&G本社やカナディアン・アカデミーなどがあることから、この街には外国人が極めて多いこと。その一方で、日本人との接点が極めて少ないこと。 また、彼らが集う和みの空間や日本人と外国人が接する店も皆無であること。
出店のための店舗を探すためにリバーモールという小売店舗郡を探索したが、うまく商売をやっている店もあったが、首を傾げたくなるような店もある。
その理由を自分なりに分析すると
○コンセプトが時流に合っていない
○情熱を感じられない
○プロ意識が感じられない
○外国人を相手に商売しようという意気込みがない
○外国人と日本人とがミックスしているという街の個性を活かしていない
○ココロが「和める空間」、「刺激を受ける空間」という本物志向が欠如している等
僕がこの街に移ってから8年程になるが、以前に比べて店舗も減り、また、刺激的な商売をする人も少なくなっているようで寂しい。不況で住民の財布の紐がかたく、この地で商売をするのを躊躇しているのだろう。
しかし、この街に住む人や働く人が心から安らぐことのできる空間としてカフェや自然食を提供する店があれば、この街の賑わいづくりに活路が見出せるのではないかと思う。つまり、ここに住む人のニーズを掘り下げ、それに応えていくような商売でないといけない。カフェと言うよりもサロンといった志向の店がいい。
今年の春には島内に大規模な結婚式場が完成し、来月には大きなレジャープールもオープンして、かってのような人が集う賑わいの街に戻るような期待もあるのだが、行政任せの箱物施設で活性化を図ることには、もう限界があるはず。というのも、箱物はいつか廃れて飽きられていく運命なんだから。それよりも、住民が本当に必要としいるのは、「和み」と「刺激」を手軽に受けることのできる空間であることに違いないと確信している。
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(出店コンセプト)
神戸の国際都市の象徴、人種のメルティング・ポットでもある六甲アイランド_
国籍を越えた様々な肌の人が集い生活する日本でも稀な街_
人口島というインテリジェントで無機質な街に、LOHAS志向による新たなワールドスタンダードを目指す「和み」の空間を提供するカフェ。
基本コンセプトは、ボーダレスとネオ・フラワーチルドレン。
国境、人種、宗教というカテゴリーには捉われない、自由奔放でトラベラー、エコロジーという人たちが集う。
コーヒーは世界で最も個人消費量が多いという北欧フィンランドより味とオーガニックにこだわった一杯。
ミールは四万十から届く無農薬野菜を中心に.