木曜日, 7月 31, 2008

ニック・ドレイクとジョニ・ミッチェルの娘たち




台北から戻ったのも束の間、今日は7月の最終日ということで、
様々な〆切が重なり合って、相変わらずドタバタしている。
これから伊丹空港より羽田にすっ飛んで、とある助成事業のプロポーザルを駆け込みで提出してトンボ帰り(笑)
いつもながら、ギリギリ癖が治らない・・

さて、ここ数日、久しぶりに大量の新作CDを購入。
それも、新人女性ものを中心に・・
8枚ぐらい買った。

先ず、Amy Winehouseの“Back To Black”
60年代そのままんまのコスプレ状態のイケイケな音。
僕はこういう大胆かつ迫力ある音が大好きです。

どうやら今、イギリスのシーンではAmyのような60年代を彷彿する白人ソウルが盛り上がっていて、
つぎのDuffyの“Rockferry”なんかは、60年代にイギリスで活躍した白人ソウル歌姫のダスティ・スプリングフィールドのそのままんのパクリ。
60年代に青春を送った団塊の世代でダスティを知っている人には、もう、孫と一緒に楽しめちゃう訳です。
これには、僕もびっくり。
ちなみに、僕はダスティのリアルタイムなファンではありませんが、
この2枚のイギリス発のソウルな音を娘と一緒に楽しんでいます。我が家のヘビーローティション!
彼女はUKチャートで1位をとったりして、イギリスのポビュラー・シーンって、ホント、マニアックですよね。

実は、これらの音の裏には、ニック・ドレイクというイギリス人シンガーとジョニ・ミッチェルに共通する
ソウル、フォーキー、ジャズといったジャンルを超えたアバンギャルドに挑戦しようとする、
強い意気込みが感じられるのです。
それは、閉塞する時代感、軽薄短小な今のラップやポップスに対するアンチさ。
だから、彼女たちはニック・ドレイクとジョニ・ミッチェルの間に生まれた娘たちと評されているそうです。

そんななかで、僕にとっての決定打は、Melody Gardotのようなアーティストがようやく00年代に出現してきたこと。
ニック・ドレイクとジョニ・ミッチェルの間に生まれた娘そのままの彼女。
交通事故によって深い傷と障害を持つ彼女の唄は、
その人生観を映すように痛々しい。
例えば、ローラ・ニーノやJudee Sillのような絶望的な凍った世界。
ある雑誌で、“彼女の唄には、ローラ・ニーノが悲しみのなかにちらりと見せた優しさを感じる”みたいな
出来すぎた評論があった。この喩えに共感! 全く、その通りなシンガーです。
アバンギャルドな21世紀のジャズは彼女のようなシンガーソングライターから生まていくのでしょうね。きっと・・

ニック・ドレイクとジョニ・ミッチェルの間に生まれた娘・・・
実は、今年のサマーソニックにこの匂いがする、これからの女性アーティストが続々と登場する・・

水曜日, 7月 30, 2008

台北40 hours 〜謝謝



台北の旅は大忙しだった。
深夜、空港に到着し、翌々日の早朝には帰国した。
滞在時間は、たったの40時間弱。
が、しかし、そこで出会った人は数えきれず・・

滞在期間中に付きっきりでお世話してくださったガイドの女性に
「あなたの雰囲気はとても台北とマッチしている!」って言われたけど、
そう指摘される前に、自分がこの街、そして、台湾人と接するときの彼らのスピード感やフィーリングに心地よさを感じていた。
まぁ、それぐらい、台北の街が好きになった訳です。

そして、これから、今回招待いただいた台湾企業とビジネスを通じて、
この街に頻繁に通いつめて、そして、自分の商売の腕も磨かせていただく。
なんと言っても、この街には商売上手な華僑がたくさんいますから・・・

てな感じで、今回も素晴らしく刺激的な旅だったわけです。
謝謝





(追記)
滞在中は、台風が近づいていて、強風と大雨の台北市内。
帰りの早朝便が飛び立つ頃に大接近。
前の晩、台北のみんなから、「絶対、帰れないよ〜」って心配されたり、
「あきらめなさいよ・・明日の晩、またまた楽しい台北の夜市に連れて行ってあげるから〜」
みたいなノリで、みんなニコニコ顔。
でも、結局、飛行機が飛んで無事アデオス!
帰国したその晩は、台湾から何本も携帯に電話がかかってきて
「あんたは、強運の持ち主だよ〜参った」
こんな楽しい一幕もありました。
でも、心の底では、もう一泊、ゆっくりと台北の夜の街を一緒に満喫したかった




写真上から
・台北の超一等地で台北市街が見晴らせる新しいオフィスの社長室でご機嫌のTeresa社長(壁の写真は私とこの企業を結びつけてくださったチェ・ツァン法王)
・この会社が制作したDVDをプレゼンしてくれたオフィス・レディ
・台北一人気の菜食中華レストランにて・・お世話になった施さんと上原さん(在日台湾人)

土曜日, 7月 26, 2008

なじみのラウンジから


本日、旅にでます。
台湾の台北へ
久しぶりの海外。
台湾のとある財閥の本社移転を記念したティー・パーティに招待されました。

ここは、なじみの成田空港南ゲートの全日空ファーストクラス・ラウンジ。
この静かなエグゼクティブな空間で、ワイン飲みながら、
旅の始まりと、出会いを予感するワクワクしたひと時が一番好きです。

月曜日, 7月 21, 2008

BBQパーリィ〜



























































WEBER日本支局普及委員でBBQの達人の僕が?!、久しぶりにパーティを主催しました。
場所は、六甲アイランドの北埠頭。
東京からシンガーソングライター、ブラジル人歌手の息子、ノルディクウォーキング・インストラクター、エンジニア、オーストラリア留学生などなど・・・
国籍も年齢も職業もバラバラの20名。
飲んだアルコールはタイガービール(1ケース)、えびす黒6本、泡盛一升、コーラー(1ケース)、ジンジャー(1/2ケース)
ミニライブもあって、死ぬほど楽しかった!
来年はPA持ち込んで、DJもやろう
ちなみ美女に囲まれた青年はブラジル人シンガー、ジョゼ・ビニェイロ氏の息子太一クン

日曜日, 7月 20, 2008

Shuggie Otisの世界


偉大な音楽家、ポール・マッカートニーとバート・バカラック。
ガキの頃からリスペクトし続けている。
ビートルズの名曲は全てマッカートニーによる功績だ。
個人的にはジョン・レノンはどちらかと言えば嫌いなタイプ。特に、「イマジン」は好きになれない。
そんなことはどうでもいい・・

先月から、月の半分を沖縄と熊本で半分ぐらいを過ごしている。
久々に神戸に戻り、メローな摩天楼の夜景を眺めていると、
Shuggie Otisを聴きい気分に・・

Shuggieは70年代のアル・クーパーとの“スーパー・セッションVol2”というアルバムでデビュー。
クーバーが、無名のShuggieという天才少年ギタリストを発掘しセッションした作品。
このアルバムは既に廃盤になっているけど、大好きだった。

70年代のサンフランシスコ・ソウルに分類されるのだけど、
このアルバムと同じ空気が流れているのは、ブラジル人Marcos Valleの“Previsao do tempo”というアルバム。
こちらも70年代のレア。

そして、現在、この二つのアルバムにインスパイヤーしているのが、イギリス人のSean O`Hagen。
彼のバンド The High Liamasによる一連の作品は北欧を旅したとき聴きまくっていた。

僕は、このラインナップがシスコ、リオ、ロンドンの時空を超えた同じ空気を感じる。
そんなことを感じつつ、肌身離さず愛用しているグリーン色のi-pod Shuffleでイヤホンから流れててくる
音にほくそ微笑み、そして、最後にはバート・バカラックに戻っていくというような、
そんな空想的音楽鑑賞を楽しんでいるリスナーなんです。

月曜日, 7月 14, 2008

運命だけでは出会えない人と出会う方法!

人と知り合うことの重要さ。

人と人との出会いは、運命によるものだと思い込んでいた。

でも、自分が知り合いたいと思う人は、決して、タイムリーにやってくるものではない。

確かに、僕は、人との出会いに恵まれ、多くの素晴らしい友人やビジネスパートナーに囲まれている。

いつも、僕の小さなオフィスに訪れてくれる事業家の大先輩がいる。
初老のその方のヴィジョンが宇宙的に大きくて、まだ、経営者としてスタートした僕は、ためらいと羨望のまなざしで彼の姿に憧れている。

経営のことをハンズオンで教えてくれる彼。

そして、僕のビジネスとは違う、桁違いのビジネスチャンスを与えてくれる大らかさ。

経営者は孤独ではあるが、時にして、こういう人からの支援は日常茶飯事のようだ。

なぜなら、いざというときのためのネットワークでもあり、そして、お互いが成長することで、利益があるから・・

「君は○○さん(有名な財閥の方)を知っているか?」と彼。
「自分には、そんなネットワークありません」と僕。

人と繋がっていくことはビジネスの基本。
どうせ、繋がるのであれば、できるだけ社会的にインパクトのある人や大志をもっている実業家であるほうがよい。
10万を稼ぐのも、1億も、そのエネルギーはさほど違わない。
だから、大きく物事を考えていくこと!

ほぼ、毎日、彼とこのような刺激的な会話を楽しみながら、
彼のリクエストするビジネス論に一歩一歩、近づいている。

水曜日, 7月 09, 2008

大宜味ブランドをプロデュースします


独立起業して、初めてのビックプロジェクトとなる「大宜味・地域ブランド化事業」。
この事業の総合プロデューサーをします。

大宜味村は、沖縄本島北部ヤンバルに位置する日本一の“長寿の村”として知られる村。
3年前、僕はここの聖地、七滝に惹かれ、そして、この滝の麓でカフェを営みながら日本野鳥の会員でNPOやんばる森のトラストを主宰する市田さんとの運命的な出会いがあった。このことは、過去、このプログの記念すべき最初のページに紹介した。

大宜味村は、豊かな自然の宝庫、芭蕉布の伝統産業、ウンガミを始めとする文化人類学上でもユニークな祭祀、長寿食、そして、森の妖精“ぶながや”と豊富な資源に恵まれている。
その一方で深刻な高齢化、基幹産業である1次産業の後継者不足、昨今の公共事業の圧縮によって建設業が軒並み衰退した。これによって若者の就業の場が極めて悪くなっており、これによって少子高齢化のスバイラルから抜け出されずに苦しんでいるのが現状だ。

このような状況を憂いて、島袋村長が年始に表明したのは、「環境保全型観光産業への転換」だった。
豊かな自然や文化・風土を資源として、この村に公共事業に代る新たな観光産業としてエコ/グリーンツーリズムを創設する地盤をつくり、若者が起業しやすい環境に整備するのだ。
今回、僕のミッションは、この村長の政策方針を実現化させるための地域ブランド戦略である。

答えはあるが、その方法論はない。
これがポイント。その方法論の糸口は、行政の力だけでは見つけ出せないだろう。
だから、プランナーやコンサルタントの時代は終焉し、地域プロデューサーやクリエーティブ・ディレクターの活躍が期待されているのだ。
僕はもう行政の下請けではない。彼らと対等で、どちらかと言えばオブザーバー的な立場にいる。
そして、その基礎にあるのは、お互いが信頼しあっている関係であることだ。

例えば、もう、行政にはお金がない。
だから、行政の委託金をあてにする従来のビジネスモデルは破綻する。
でも、視点を変えてみると、実は、お金は市場にジャブジャブと使い道に困り有り余っているのが現状だ。
この金脈にアクセスする方法を探しだし、地域に還元していかねば活性化はあり得ないのだ。
これもポイント!もう公共事業には頼れないのだから・・

前にも書いたが、僕は活動拠点の半分を沖縄に移すこととなる。
神戸と沖縄を行ったり来たりの生活。
沖縄から更に台湾、フィリピンへと活動範囲を広げてみたい。

月曜日, 7月 07, 2008

島サバ(草履)を履いてどこへ行こうか!?


島サバとは、魚の“鯖”のことではない。
沖縄のゴムゾウリのことだそうだ。

やんばるのジャングルの開拓地に、陶芸家のKさん夫妻のお宅がある。
ジャングルに囲まれた庭はきれいに掃除されている。
ご主人と中学二年の娘さんの三人住まいの古民家も素敵だ。
どこかバリ島を感じる庭。

インド放浪旅の思い出、東京の芸大時代のこと、沖縄の文化や自然が壊されていくことへの怒り、
沖縄人の良いところと悪いところ、、、
お話は尽きない。

なかでも、印象的だったのが、芸大を卒業して沖縄に戻ってこられたときの、自然破壊の惨さ。
まだ、本土復帰前だったそうだ。
東京では、沖縄に帰る日を待ちわびては、島サバをはいてウチナーを歩きまわる自分の姿を想像してはワクワクしていたという。
でも、思い出の沖縄はそこになくなってしまっていた。
陶芸制作に集中するため玉城からヤンバルへ移住して20年。もっと自然を求め、さらに奥地へ、島へと移住計画中だそうだ。

ネパールのポカラにギジムナーというチベット難民が経営する宝石店がある。
この店は、彼女が友情の証として彼らに寄付したお店だそうだ。
ギジムナーとは、ヤンバルの精霊のこと。
沖縄の人がネパールに旅して、真っ先に、「ギジムナー」という言葉に惹かれ、店に入る。
そうすると、この店のオーナー夫妻はKさんとの約束を守る。

「日本人が困っていたら、助けてあげてほしい」という言葉。

Kさんとチベット難民夫妻との約束は、やがて大きなスピリットとなって、いまでも、日本、琉球、チベットとの心の交流を生み続けている。

今、僕は、沖縄本島北部の大宜味村に活動拠点の半分を移しつつある。
神戸と沖縄を往復する日々。
大好きな沖縄で仕事ができて、しかも、こんなにコアなウチナンチューに出会えたヤマトンチューとして、やんばるの自然保護や島の活性化に貢献できることを誇りに感じている。
Kさんには、今回、僕がプロデュースする地域ブランディング事業に参画いただいている。