火曜日, 10月 19, 2010

快楽と苦痛


仏教では、人の一生は無常であることを説く。
日々に、その瞬間に、「快楽」と「苦痛」が付きまとい、そして、繰り返され消えていく。
だから、できることならば、苦しみから逃れて、快楽を享受したい。
それ故に、愚かな人間は神仏に祈りを捧げる。
しかしながら、快楽の後には、また再び、苦しみがやってくる。
逆に、今あなたが苦しみの中にあるのならば、それは、幸せがやってくる前兆でもある。

だから、苦しみは、近いうちに大きな果報を受け取るサインでもあるし、
他人の苦しみをも慈しむことのできる利他心を発心するチャンスでもある。

逆に、快楽に溺れると堕落してしまうことさえもある。
幸せと快楽とは別である。
ダライ・ラマは、「人間を含め全ての生命には、幸せを求める権利がある」と説く。
この教えは、仏教の核心でもある。
だからこそ、「幸せ」の本質を間違ってはいけない。

快楽を追い続けることを手放して、そして、苦痛さえも取り入れて認める。
今の苦しみも快楽も、すべては自分が蒔いてきた種。つまりは、行ってきた行動によって生じる原因と結果によるカルマ(因果)なのだ。

だから、幸せの本質を理解し、明日から幸せを享受するためには、「幸せの種」だけを蒔けばよい。

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